嵐ヶ乢
新庄宿と四十曲峠の間の出雲街道の峠
読み方 | あらせがたわ | |
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標高 | 730m | |
位置 | 岡山県真庭郡新庄村 | |
水系 | 旭川 | |
実走日 | 2011年10月19日(水) | |
地図など | Google Maps・地図院地図 |
出雲街道という古い街道があって、美作北部の新庄宿を通り、伯耆との国境の四十曲峠を越えて、米子経由で出雲に通じていた。という話は実際に訪れて知ったことである。ともかく、その新庄宿と四十曲峠の間には実はもうひとつ峠があり、それがこの嵐ヶ乢である。
後鳥羽上皇や後醍醐天皇が隠岐に流されるときにはこの道を通り、江戸時代には参勤交代の際の通り道となった。峠の前後にはそれらにまつわる史跡というか遺構のようなものが残されている。日本史好きにはたまらない峠だろう。
新庄村の中心部が新庄宿である。メインストリートはがいせん桜通りだ。背のあまり高くない桜の並木があり、幅のあまり広くない道路がまっすぐに伸び、その両脇には小さな水路があり、その外側には古い建物が続く。とても雰囲気のある街並みだ。通りかかることがもしあればぜひ宿場の中の道を通ってみることをおすすめしたい。
さて四十曲峠に向かうとする(このときは嵐ヶ乢という峠があることは知らなかった。四十曲峠の手前で川筋が変わることは知っていたけれども)。国道の1本南の道を西へ進み、そして国道を横切って川をさかのぼっていく。ちなみに新庄宿の標高は470mほどだ。
国道は左側の山際をじりじりと上っていっている。正面に国道の橋(新庄大橋)が見える。
戸島の集落を過ぎてこちらは右折し、野呂川沿いに遡りはじめる。田んぼが終わると杉並木が始まり、出雲街道杉並木、一里塚跡、硯石、後鳥羽公園の看板がある。ここからが後鳥羽公園と呼ばれる一角のようだ。かつて後鳥羽上皇が隠岐に配流されるときにここを通り、歌を残していることにちなんでいる旨が書いてある。
後鳥羽公園の看板のところで右に分岐する道路があるので間違えやすいが、後鳥羽公園はそちらではない。この杉並木沿い一帯が後鳥羽公園なのだ。
1車線の杉並木の道路を上る。勾配は相当きつい。しばらく行くとS字状のカーブがあり、そこからはイチョウの並木になる。ほんの少しだけ始まった黄葉が青空に映えている。
やがてしだれ栗に到着。道路の左側に2本しだれたクリがあるが、残念ながら実はなっていない。これには後鳥羽上皇が箸を立てたら木になったといういわれがあるという(越後七不思議の逆さ竹のような話だ)。また右側の林の斜面を少し上ったところに後鳥羽上皇の歌碑がある。その内容は都を懐かしむものだ。
その歌を看板に従って書いておくと、みやこ人たれふみそめてかよひけんむかいの道のなつかしきかな
である。
また御水池という、後醍醐天皇ゆかりの水場もあるが、水は枯れていた。
きつい上りは続く。やがて林の中の道は終わり、深い切り通しの中となる。やがて鞍部に到着。右側に標高730mの標柱と出雲街道 嵐ヶ乢嵐ヶ乢と地蔵の看板がある。嵐ヶ乢! 何か四十曲峠よりもかっこいい名前がきたじゃないか、と思う。
ちなみに嵐ヶ乢と地蔵の看板によると、かつては地蔵尊がここにあったが、今は下に下ろしてあるとのこと。
下り出す。正面に間近い山並み、砂防ダム、そして集落が見える。下りは一部だけ道が広くなっている。いずれにしても下りはすぐ終わり、二ツ橋の集落に着く。突き当たりの交差点にちょうど六体地蔵がある。
なおこの交差点に右側から来る側には案内標識があり、旧四十曲峠1.5km↑となっている。標高は640mほど。
2012年7月5日初版